親鸞聖人の教えを伝えてくれる親鸞会でこの有名なたとえ話を聞いたのですが、たとえの意味を続けたいと思います。
秋
旅人は、果てしのない広野を一人で歩いていた。しかも木枯らしの吹く秋の夕暮れであったとは、釈尊は人生の寂しさを例えられています。
なぜ、人生は寂しいのでしょうか。
その理由を釈尊は、
「独生独死 独去独来」
(独り生まれ、独り死し、 独り去り、独り来る)
と説かれています。この世に独りで生まれてきたのだから死んでいく時も独り。最初から最後まで、独りぼっちの旅なのです。
「肉体の連れはあっても、魂の連れはない」ということです。どれだけ多くの人に囲まれていても寂しいのは、自分の心を分かってくれる人がいないからです。
親子、夫婦、親友でも、心の中を洗いざらい言えるでしょうか。
よくよく心の奥底を見つめると、とても言葉に出せないものを、お互いに持っています。もし口にしたら、「そんなことを思っていたのか」と、相手に驚かれ、嫌われてしまうでしょう。
「あの人には何でも言える」というのは、言える程度までならば何でも言える、ということです。自分の悩みや苦しみを、すべてだれかに話すことができ、完全に分かってもらえたら、どれほど救われるでしょう。しかし現実には不可能です。
「永遠の愛」を誓った夫婦でさえ、どれだけ行き違いが多いことか。話し合えば話し合うほど、お互いの感覚や価値観の違いが浮き彫りになるのは、どうしようもありません。あからさまに言いたいことを言うとケンカになるので、家庭生活を維持するには、違いを認めて歩み寄らねばなりません。それにはかなりのエネルギーを要するから、相手に配慮する気力がなくなった時が破局です。
どんなに仲良く、一緒に暮らしている相手であっても、一人一人の本心は、別の人には、のぞき見ることもできません。自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれています。
寂しくて何かをせずにおれないけれど、何をしても紛らわすことができない。
まさに底知れぬほど寂しいところが人生なのです。
釈尊は、まず人生の寂しさを教えられ、そこから真の意味で解放された世界を明らかにされたのです。